1985年8月12日。日本航空JAL123便が御巣鷹山に墜落してから、もうすぐ36年目を迎える。
当時、僕は新潮社『FOCUS』誌の契約カメラマンとして、生存者のいる事故現場にいち早く到着した。31歳だった。あの暑い夏がやってくると思うと、今でもいろんな出来事が脳裏をかすめる。確かに老いとともに記憶が薄れてくることは間違いない。御巣鷹山事故JAL123便は記録写真から記憶写真という世界に突入してさらに時間を重ねてきた。
今でも腑に落ちない事実は、墜落したであろう飛行機に「放射線アイソトープ」が積んであったので、絶対に何も触るなというという指示が何度も出ていたことだ。不安と恐怖に駆られつつそれがどういうものかも理解しないままに、とにかく現場に行くしかない報道カメラマンの使命感があった。
いつの間にか「放射線アイソトープ」は空耳であったのかのような。そして何より素早く墜落場所が特定できなかった。右往左往する自衛隊と警察にわれわれメディアは翻弄された。
昨年、コロナで誰も慰霊登山ができなかった。そこで2020年8月8日配信で東洋経済オンラインに「日航機墜落現場を写した私の忘れられない記憶」というタイトルの記事を寄稿した。僕自身まったく想定していなかった反響の大きさに驚いた。
そこで今年2021年もこのコロナ禍で登山ができないことを想定してドローンで上から昇魂之碑を探してみることにした。今回の最大の目的は現地に慰霊に来ることができない遺族や関係者の方々に今の御巣鷹の尾根をドローンで可視化していただくことだ。その撮影を7月23日に試みた。偶然にもオリンピックの開会式の日だった。
事前調査により、2019年10月の台風19号の影響で、現地では土砂崩れや大雨でかなりの被害が出ていた。道路は封鎖されており、いちばん近いパーキングまで、現在はたどり着けないことが判明していた。
今年2021年8月7日ぐらいから5日間ほど、遺族と関係者は登山が許可されるという情報も得たが、天候の問題もあり、不確かな面も多く、現状を自分の目で確かめたくてドローン・ジャーナリスト渡邉秋男氏と現地に赴いた。
彼からのアドバイスもあり、今回僕ら2人は、36年前の1985年当時、僕自身がどういうルートで墜落地点であり生存者を発見したスゲノ沢までたどり着いたのかという検証もすることにした。
「放射線アイソトープ」とは何だったのか