故郷の土を踏めずに息絶えた部下、軍旗の残灰、焦土と化した故郷――。76年前の光景が今も神宮寺敬(けい)さん(101)=甲府市下積翠寺町=の脳裏に鮮明に焼き付いている。日中戦争に出征し、戦後は日中友好活動に取り組んできた。年々、戦争体験者がこの世を去る中、平和の尊さを命ある限り、願い続ける。【梅田啓祐】
神宮寺さんは旧制甲府中(現甲府第一高)を卒業し、逓信省に入省。1941年1月には近衛歩兵第5連隊に入隊した。当時20歳。「天皇陛下に忠節を尽くし、命をささげようと心に決めた。当時は名誉であり、男子の本懐と信じていた」。
前橋市の旧陸軍予備士官学校に半年間在籍後、南方戦線に出征。翌42年に中国戦線に派遣され、歩兵第157連隊の通信中隊長として南京市付近で部下数十人を率いた。中国軍との交戦では大切な部下の命を失った。
45年8月15日、上海市内で玉音放送を聞いて敗戦を知ると、数日後の夜には東京から来た陸軍参謀の指示で重要書類と、命がけで守り抜いてきた軍旗が桐箱に納められたまま燃やされた。静かにその光景を見守った。
その後捕虜として収容され、46年1月14日に故郷に戻った。しかし、慣れ親しんだ町並みは甲府空襲(45年7月6、7日)で焦土と化していた。
復員を喜ぶ両親や家族を横目に、神宮寺さんは戦死した部下の遺族に思いをはせて胸を痛めた。部下の実家を訪ね、戦死の報を伝えた時の「うそだ」「信じたくない」という遺族の表情を思い出しては「戦争さえなければ皆幸せな日々を送っていたのに。自分だけ生き残った」と負い目を感じた。しばらくは戦争体験を身内にも話すことができなかったという。
そんな神宮寺さんの意識を変えるきっかけの一つが、2004年に公開された井上ひさし原作の映画「父と暮せば」だ。原爆で生き残ったことに負い目を感じ、幸せになることをためらう娘と、幽霊となって現れた父親との心の交流を描いた作品で、「自分は戦争の悲惨さを話すために生かされている」と強く感じたという。
日本国民だけでなく戦争の犠牲になった中国の民間人に対するしょく罪の意識から、日中友好活動にも尽力してきた。自宅隣に下宿棟を建て、中国人留学生を受け入れ、毎年秋には中国を訪問。既に50回以上は訪中を重ねてきた。県日中友好協会理事長として「日中の若者同士が互いに良いところを認め合って、話し合うことが大切。仲良くやればいい」と日中交流の大切さを伝えている。
戦後76年の夏、戦争の風化が危惧される中、神宮寺さんは戦時中にその目で見た数々の光景を思い起こし、「殺すことも殺されることもない世の中を作ってほしい。戦争が起こらないように全力を尽くして」と訴える。