◆「どんな非難、中傷、謀略ビラでたたかれようと、摩文仁の戦場にもどったつもりでやれば、乗り切っていけます」 沖縄県知事 大田昌秀
大田昌秀さんに何年ぶりかでお会いすると、開口一番、「ドン・キホーテと書かれましたね」と笑顔をみせた。沖縄県知事に就任した日に、わたしが取材した記事を思い出していたようだった。「政治の力関係を無視した主張は、やがてドン・キホーテの謗(そし)りを招かないともかぎらない。どこか悲劇の政治家ゴルバチョフの風貌を思わせる当人は、それも先刻承知の様子である」(「AERA」1991年1月15日号)と書いた。
県議会内での少数与党だった。3万票の票差で前任者の西銘順治氏の4選を阻止した。公約は「基地撤廃」。まるで巨大な米軍基地に立ちむかう、セルバンテス作品の主人公のようだった。そのこともあってか、8年あとの98年、3期目の県知事選では、出所不明の不穏なポスター「9・2%」(当時の沖縄県の失業率)、「県政不況」などの悪宣伝と攻撃にさらされた。