東京天文台(現国立天文台)を麻布から約20キロ郊外の三鷹村(現三鷹市)に移転する計画が浮上した時、観測主任の一戸直蔵氏(1878~1920年)は約100キロ離れた群馬県の赤城山(1828メートル)に移すべきだと主張した。都市から離れ、観測条件がいい山に設けるのは今は常識だが、地方暮らしを嫌う台長らに拒否された。時代を50年先取りした発想の持ち主と言われるこの天文学者は、さまざまな点で日本の天文学を世界に比肩するレベルに高めようとしたが、結核を病み、構想を残して彗星(すいせい)のように42歳でこの世を去った。
天文台は今の東京タワー近くにあったが、1900年代初頭、手狭になったうえ、周囲が都市化して観測に支障が出ていた。一戸氏が赤城山を選んだ理由は不明だが、文部省(当時)の測地学委員会の委員として、03年以降訪れた関東の山々から最適と思ったのかもしれない。一戸氏の回顧録などによると、年配職員は「子供の教育に困る」と拒否感を示したが、「学問のため犠牲が必要。いたずらに家族を考えるのは学者の恥」と考えた。